旧東海道ゆっくり旅
「六郷の渡し~川崎宿~鶴見」参加

平成31年4月26日

横浜金澤シティガイド協会主催の≪旧東海道ゆっくり旅「六郷の渡し~川崎宿~鶴見」≫に参加して、 京急川崎駅から生麦駅まで(六郷の渡しから生麦の旧東海道に沿って)歩きました。

大正14年から約60年間架けられた旧六郷橋の親柱です。平成14年に 稲毛公園に再現されました。
稲毛神社です。平安時代以降、山王社と呼ばれ、江戸時代には川崎宿および河崎七か村の鎮守として 崇敬を集めました。
六郷の渡し碑です。明治元年の明治天皇行幸の際には、船橋を架けて渡ったとのこと。
川崎稲荷社です。紀州藩主吉宗が八代将軍を継承のため江戸に向かい途中 、この境内で休息したとのこと。
旧田中本陣跡です。当主の田中休愚は、六郷の渡し船の権利を譲り受け、宿場財政を立て直したとのこと。
東海道かわさき宿交流館に立ち寄りました。ちょうど「川崎が生んだ詩人 佐藤惣之助展」が開催されていました。 佐藤は、人生の並木道や、赤城の子守歌、そして大阪タイガースの歌(六甲おろし)など幅広く作詞しました。
宗三寺です。鎌倉時代の創建で、境内には、宿場で働いていた飯盛女達の供養塔があります。
川崎信用金庫の前に「佐藤惣之助の碑」があります。
小土呂橋跡です。二ヶ領用水下流の新川堀水路に架かっていた橋で、橋の欄干の親柱が保存されています。
松尾芭蕉の句碑「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」が線路際にあります。門人たちと川崎宿のはずれの 茶店で、別れを惜しんで読んだ句です。
八丁畷駅の脇に無縁塚があります。川崎宿の京都側の出入り口(京口土居)から西へ 八丁にわたり、畷といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びていたことから、この付近を八丁畷と 呼ぶようになったとのこと。ここには、江戸時代に身元不明の遺体を埋葬したと伝えられ、多くの人骨が 道路工事などに伴って掘り出されています。供養のため昭和9年に慰霊塔を立てました。
横浜信用金庫市場支店の場所を借りて、昼食をとりました。
専念寺です。富士山の噴火の際に飛来したという夜光石をご神体として富士浅間宮本尊が祀られています。
熊野神社です。徳川家康入国に際し、武運を祈った神社だそうです。
市場一里塚です。日本橋から5番目の塚です。
鶴見川橋です。もともと鶴見橋が架かっていたところですが、下流に鶴見橋ができたため、 鶴見川橋と名乗っています。
鶴見橋関門旧跡です。生麦事件後、攘夷派浪士による殺傷事件取締りのために おかれた番所一つです。
馬術上達や馬上安全を祈願する寺尾稲荷への道標です。寺尾稲荷は寺尾城址の西斜面にあったそうです。 現在の川崎区多摩区寺尾台にあたるようです。
鶴見神社です。推古天皇の時代の創建と伝えられています。
現在はラーメン屋になっていますが、鶴見村で最も繁盛した信楽茶屋跡です。 竹の皮に包んだ梅干しを商っていたとのこと。
JR鶴見線の国道駅前には魚河岸が広がっています。もう午後になって いましたので、ほとんどの店が閉まっていました。
道念稲荷神社です。ここで行われる行事「蛇も蚊も」が知られています。 萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まる行事で、長大な蛇体を若者・子供がかついて 「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と唱えながら町内を担いでまわります。
生麦事件の発生場所です。民家の塀に案内板だけがが掛けられていました。
事件発生現場から逃げて、英国人リチャードソンが落命した場所に建てられた生麦事件碑で、キリンビール の工場の入口近くにありました。

最初は土砂降りの雨のなかでしたが、後半には雨も上がり、ゆっくり歩けました。 この後、京急の生麦駅まで戻って帰りました。

―以上―