「玉縄城址を訪ねて」
ー諏訪壇を特別見学ー

2019年9月13日

「北条早雲没後500年 玉縄城址を訪ねてー普段は入れない諏訪壇を特別見学ー」に参加し、 大船駅から往復しました。

玉縄首塚です。玉縄北条氏と里見軍との大栄6年(1526)の戦い後に、お互いに討ち取った 首を交換し、塚を築いてその上に榎を植えて、戦死者の零を弔いました。玉縄首塚由来の碑には、怨親平等とあり、 死者は敵味方なく供養することを意味しています。
龍寶寺です。玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂奥の開山堂には、歴代玉縄城主の位牌や 源実朝の位牌も安置されています。
境内にある北条氏供養塔です。平成24年に玉縄城築城500年祭に合わせて、諏訪神社が鎮座する山の 中腹にあった玉縄城主三代の墓が本堂脇に移されました。
境内には新井白石の碑もあります。白石が植木・城廻を知行地としていたことによります。
境内の一角にある玉縄ふるさと館を見学しました。玉縄城のジオラマを使った説明を受けました。 玉縄城の大きさを実感できました。
諏訪神社です。玉縄城内の諏訪壇に祀られていましたが、元和元年(1619)の廃城後、 現在地に遷座され、近くの御霊神社と合祀され、旧玉村村の鎮守になりました。
龍寶寺門前の道路には、実朝ゆかりのエンジュが100本ほど植えられています。 『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』は、源実朝の和歌をまとめた歌集ですが、 「金」は鎌倉幕府の意味、そして「槐」は「えんじゅ」という木のことで、中国の故事から「大臣」の意味で使用されています。 (中国では昔、朝廷の庭に三本の槐を植えて、三つの官職の位置を示したとのことです)。
清和女学院中学・高校敷地内に入ります。現在、校舎や校庭になっていり辺りが玉縄城の中心であり 本丸があったところです
諏訪壇です。玉縄城址の最高部にあった平地で、そこに武運長久を祈って 諏訪大社が勧請され、諏訪神社がありました。
三角広場です。七曲り坂を頭上から守るための矢射場です。
玉縄城からのながめを実感出来る場所です。
遠く二伝寺の屋根も見えます。地侍の福原氏が建立して寺院で、北条氏時に よって西の守りの要となる砦になりました。
現在、清泉女子学院の裏門になっているところが、玉縄城の大手門があった辺りです。
七曲りです。大手門から玉縄城の東側に通じる急峻な道で、幾重にも 曲がってくねっています。
太鼓櫓です。高く築かれた土塁で、敵の襲来や時を知らせる太鼓を打つために設けられました。 太鼓櫓の土塁と本丸の土塁に間は深く掘られていて、敵は本丸に侵入するのを防ぐ役割を果たしていました。
ふあん坂です。玉縄城から久成寺の門前近くへ下る急坂で、 坂の中ほどの両側に平場があり、敵の進入を防ぐ施設があったと言われています。
久成寺です。小田原北条氏の家臣であった梅田秀長が日蓮宗の僧となり、屋敷をお寺にしました。 江戸時代のは徳川家康が鷹狩の時に立ち寄りました。
境内には、長尾砦跡から移した長尾定景とその一族の墓があります。子孫に上杉謙信(長尾景虎)がいます。

今回は、歩いて大船駅まで戻りました。

―以上―