浦賀道を歩く1
鎌倉~逗子

2019年9月28日

横須賀シティガイド協会主催の「浦賀道を歩く1鎌倉~逗子」に参加して歩きました。

日蓮辻説法跡です。明治時代の学者が、通りの反対側にあった「日蓮上人の腰掛け石」と呼ばれた 石を現在の位置に移して周囲を整備しました。
夷堂橋です。鎌倉十橋の一つです。名の由来は、かつて、 この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことによります。
本覚寺です。小町大路に向けて山門があります。 足利持氏が鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進した寺院で、 佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人は、この夷堂に滞在して布教を再開しました。
この四つ辻は下の下馬と言われています。鎌倉時代、八幡宮に参拝するときは身分の高い 武士であっても、ここで馬を下りることになっていました。
延命寺です。執権北条時頼の夫人が建てたといわれています。足利持氏公の御廟所がありました。
時宗の教恩寺です。北条氏康が光明寺境内に建立したのが教恩寺の始まりです。 また、平清盛の子、重衡ゆかりのお寺さんでもあります。山門には十六羅漢の彫り物があります。
和菓子の店「大くに」です。ぼたもち供養で使われるぼた餅は、ここで作られます。
常栄寺です。ぼたもち寺と言われています。 鎌倉時代に龍ノ口で刑に処されることになっていた日蓮に、一人の老婆がぼたもちを差し出した逸話に由来します。 この「龍口法難」にちなんで、毎年9月11、12日にぼたもち供養が行われます。境内で胡麻のぼた餅が振る舞われます。
八雲神社です。もと鎌倉祇園社や祇園天王社などと称したが、 明治維新に際して現社名に改称しました。厄除け開運の神社としても知られています。
時宗の別願寺です。室町時代には足利一族が深く信仰し、 鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる供養塔(宝塔)があり、 持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されています。
上行寺です。鎌倉の癌封じのお寺としてとても有名で 、全国からご利益を受けようと大勢の方がお参りに訪問されます。 境内には、瘡守稲荷と身がわり鬼子母神が祀られ、祈祷のお守りやお札をいただくこともできます。
安養院です。北条政子が夫・源頼朝の冥福を祈って建てた笹目の長楽寺が前身といわれ、 源頼朝に仕えた田代信綱が建立した田代寺の観音堂を移して再建されました、安養院の名は政子の法名です。
安国論寺です。日蓮が御法窟で「立正安国論」を執筆し、北条時頼に建白したと言われています。
長勝寺です。日蓮上人が鎌倉の松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つです。 この地の領主・石井長勝が日蓮上人に帰依し、 日除と名乗り、弘長3年(1263)にその邸内に寺を建てて 、日蓮を開山にした寺です。
銚子の井は、鎌倉十井の一つで、石の井とも言われています。
日蓮乞い水です。鎌倉五名水の一つで、日蓮上人がこの付近で急に水が 飲みたくなり、もっていた杖を地に突き刺すとそこから水が湧き出てきたと言われています。
大町ふれあい会館前の公園で昼食をとりました。
名越切通です。鎌倉から三浦半島に通じる交通路で、吾妻鏡にも記載されています。
まんだら堂やぐら群です。時期を決めて公開していますが、今回は閉まっていました。
石切り場が遠く見えます。鎌倉の主な石切り場として、山ノ内・今泉・二階堂 ・浄明寺・十二所・名越・極楽寺が挙げられています。鎌倉地産の石の特徴として、 それほど硬くないので加工しやすい一方で風化しやすいという特徴が挙げられます。
松汀園です。銀行家の牧野元次郎の別邸として大正時代に建てられました。現在は国家公務員の 宿舎として利用されています。
この黒門の建物は、第十五銀行の支配人であった成瀬正恭の別荘として建てられ、現在は 黒門カルチャーくらぶとして運営され、「北方文化博物館」の逗子分室となっています。
富士見橋です。かつては田越橋と呼ばれ浦賀往還のもっとも大きな橋でした。何回も架け替えれています。

ここから、横須賀線の逗子駅まで歩いて帰りました。

―以上―