横浜金沢散歩
「金沢の古道と金沢八景」参加

2019年5月11日

横濱金澤シティガイド協会主催の横浜金沢散歩「金沢の古道と金沢八景」に参加して、 金沢八景駅から海の公園南口駅まで歩きました。

金沢八景駅から歩き出します。これは最近直結するようになったシーサイドラインの金沢八景駅です。
琵琶島神社に立ち寄ります。何回か来ていますが、北条政子が竹生島弁財天を勧請して作ったとのこと。 瀬戸秋月(歌川広重の金沢八景図)を想像しました。
六浦道に沿って歩いて行きます、これは金龍禅院です。裏山頂上部から六浦湾がほぼ全景が見渡す展望台が江戸後期に設けられました。
飛石です。金沢四石の一つで、瀬戸明神が伊豆の三島から飛来し、この石に飛び移ったと 伝えられています。
展望台にあたる九覧亭です。現在では、樹木などにもさえぎられ、あまり眺めはよくありませんが、金沢八景を見渡す 展望台として江戸時代後期に設けられました。
上行寺東遺跡です。ここに、やぐら43基など数多くの遺構がありましたが、マンション建設で破壊され、ここには ガラス繊維とプラスチックで再構築されたレプリカで、上段部分だけが復元されています。
日蓮宗の上行寺です。もともと真言律宗金剛寺でしたが、建長6年(1254)、富木五郎胤継が鎌倉幕府へ参勤の折、 日蓮聖人と同船(船中問答)、富木五郎胤継は日蓮聖人を当寺普識法印に引き合わせた結果、 当寺を日蓮宗に改めたといいます。
左側は宝篋印塔です。南北朝時代に造立され、特定の一結衆だけでなく、 牛馬六畜のためにも供養するとの名分が刻されていて、六浦周辺の交通とも深い 関係があると推測されています。右側は,日荷上人が植えられたという樹齢600年ものカヤの大木です。
門前一帯までは、往古海浜だったようで、ここに船繋ぎの松(樹齢約1千年)ありましたが、 昭和22年枯死のため、2代目が植えられています。
浄土宗の光傳寺です。六浦の住人長野六右衛門の開基で、六右衛門旅先で自らの誤りで切り落とした 阿弥陀如来の御首を持ち帰り、草庵を建ててお祀りしました。 ある時、夢のお告げで鎌倉の二階堂にあった胴体だけの仏像を戴き、 御首を添えて一体のご本尊としました。
諏訪之橋です。六浦道から分かれて、浦賀へ向かう浦賀道の分岐点です。下を流れる川は 侍従川です。歌舞伎、浄瑠璃などの演目・小栗判官照手姫に出てくる照手姫が身を投げたことを嘆き、 その侍従がこの川に飛び込んだことからこの名前がついたと言われています。
三艘町内会館です。昔この辺りは三艘呼ばれ、唐船が三艘来航したのが地名の由来です。 会館内に文殊菩薩像が安置されていて、戦国時代の小田原北条氏家臣。朝倉景高の持仏だったとのこと。
浅間神社です。ここから、遠く関東学院校舎の後ろに鷹取山が見え、内川暮雪(歌川広重の金沢八景図) を想像しました。
染王寺です。境内には四基の墓塔からなう筆子塚があります。本寺が 寺子屋のような学問推進の場であり、教えを受けた手習子たちのよって師である住職のために 建てられたとのこと。
野島稲荷神社です。野島の総鎮守で鎌倉時代の創建です。
野島青少年センターをお借りして昼食を摂りました。付近にはバーべキュー場もあり、 賑わっていました。
野島掩体壕です。旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲からも守る施設として建設されました。
野島山の途中まで登りました。遠く、称名寺も見えるようです。野島夕景(歌川広重の金沢八景図) を想像しました。
旧伊藤博文金沢別邸脇を歩きます。残念ながらボタンのシーズンを終わっていました。
野島古道途中に入成塚があります。昔、この辺の海がよく荒れて人々が困っていたところに伝海という修行僧が通りかかり、 人柱を立てないといけないと言い、修行僧の身なので修行を終えた3年後の1676年にこの場で自分が人柱となるために穴を掘って入り、 空気を吸うための竹をさして念仏を唱えていて、7日後に念仏が聞こえなくなり入成し、海がおさまったとのこと。
海の公園近くを歩きます。潮干狩りを楽しんでいました。その後、海の公園南口駅へ出て帰りました。

今まで知らなかった金沢の風景を楽しむことができました。

―以上―