悠久の流れ「滑川」を遡る
ヤマアジサイ彩る「一条恵観山荘」入園 参加

2019年6月14日

鎌倉ガイド協会主催の「悠久の流れ「滑川」を遡るーヤマアジサイ彩る「一条恵観山荘」」に参加し、 滑川を遡り、10の橋を渡り新緑と山アジサイを堪能しました。

鎌倉駅西口時計台広場からスタートです。
最初は下川橋を渡ります。
源頼朝が幕府の守護神(裏鬼門)として建てられた夷三郎社が本覚寺境内に移され夷堂となりました。 橋の名前はそこから付けられ、夷堂橋といいます。
小町の鎮守として永享年間(1429~1441)に建てられた本覚寺です。
琴弾橋です。昔、この丘には、松の枝が風にゆれると琴を弾くような音色がしたことから名付けられた「琴弾きの松」が あり、橋名はこれに因みます。
日蓮上人辻説法跡です。鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した 地域で、毎日もようにこの辺りで法華経の功徳をとく辻説法を行ったと伝えられています
東勝寺橋です。現在の東勝寺橋は大正13年に建造された上路式鉄筋コンクリートのアーチ橋 です。
東勝寺跡です。北条泰時が北条得宗家の菩提寺として建立され、寺院の構えは 守りの拠点として軍事的な狙いも隠されていたようで、背後を取り巻く屏風山を城壁とし、西を流れる滑川を 掘割として敵に侵入を防いでいたと思われます。幕府滅亡のとき、ここに北条高時以下多くの方が自害等で なくなったとされています。
腹切りやぐらです。北条高時はじめ北条一族の屍を葬ったとされています。
宝戒寺橋を渡って、宝戒寺裏手の紅葉山やぐらに向かいます。 宝戒寺は立ち寄りませんでしたが、滅亡した北条氏の霊を弔うため、そして修行道場として 後醍醐天皇が足利尊氏に命じ建立させたと云われています。
紅葉山やぐらです。昭和10年に発見され、五輪塔や北条氏所縁の納骨穴が発見されました。
大倉稲荷橋です。
大倉稲荷です。吾妻鏡に登場する「大倉稲荷」のことではないかといわれています。 『吾妻鏡』の弘長元年5月1日の条に、「幕府は、大倉稲荷に会合している者を捕らえようとしたが、 悉く逃げてしまった」と記述されいます。
大御堂橋です。
勝長寿院跡です。頼朝が父義朝の菩提を弔うため、本堂、阿弥陀堂、弥勒堂、五仏堂、三重塔などが建てられました、 義朝の遺骨とその家臣鎌田政清の首を埋葬しました。幾度も火災により焼失し、その都度再建されましたが、 1460年頃尾から荒廃し、廃寺となっていきました。現在は、地元有志が建てた供養塔が残るのみです。
「田楽辻子の道」です。鎌倉時代からある小路で、その昔、田楽法師が住んでいたからと言われています。
犬懸橋です。犬懸上杉家の邸がこの橋の奥にあったことから名付けられました。
広瀬橋です。犬懸橋と広瀬橋の二橋とも杉本寺近くのあり、ゆるやかに蛇行する滑川の 景観は趣があります。
報国寺です。足利氏、上杉氏の菩提寺として栄え、境内の「竹の庭」が非常に有名だそうですが、 今回は立ち寄りませんでした。
報国寺の門前にイワタバコの花が咲いていました。葉がタバコに似るので名付けられたとされ、 日本各地の日当たりの悪い湿った岩や崖に生える多年草でそうです。
旧華頂宮邸です。昭和4年に華頂博信侯爵邸として建てられました 。(華頂博信は伏見宮博恭王の三男「博信王」として生を受け、1926年に臣籍降下し、華頂侯爵となりました)
整然としたハーフティンバースタイル(柱・梁・筋違などの骨組みを外にむき出しにし、 その間に煉瓦・土・石を充填して壁とする西洋木造建築の様式) は、県内戦前の洋風住宅建築を代表するものです。
一条恵観山荘です。摂政・関白を務めた一条恵観公によって、正保年間(1644~1647)に 京都西賀茂の里山に一条家の別邸の茶屋として建てられ、昭和34年に鎌倉に移築され、保存管理されました。
別邸の茶屋は、茅葺屋根の田舎風の造りになっています。今回は中までは入れませんでした。
楊梅亭では、カフェも楽しめるようです。
目の前が滑川です。かまくら石の上をなめるように流れていて、川名の由来が分かります。
山紫陽花が50種類あるようです。

鎌倉駅まで歩いて戻りました。

―以上―